有観客の喜び応えプレーを 応援してもらえる選手であれ 【千葉県高野連会長に聞く】

千葉県高等学校野球連盟 早川貴英会長
千葉県高等学校野球連盟 早川貴英会長
第80回選抜高校野球大会へ出場が決まり喜ぶ安房ナイン=2008年1月
第80回選抜高校野球大会へ出場が決まり喜ぶ安房ナイン=2008年1月

 9日に開幕する第104回全国高校野球選手権千葉大会。強豪ひしめく千葉県で甲子園に出場できるチームは一握りだ。2008年、母校の安房を率いて聖地で勝利を挙げ、今年春、甲子園監督経験者として初めて県高野連会長に就任した早川貴英さん(現・千葉県立安房拓心高校校長)に、高校野球指導者としての苦悩や葛藤、今後の高校野球の展望について話を聞いた。

 ―野球が好きになったきっかけは。

 生まれ育った南房総市白浜町は野球が盛んで、小学校のときは地区内のソフトボールチームに入っていました。遊びの延長のような感覚で。野球が好きになったきっかけは、野球漫画「キャプテン」(ちばあきお著)。陰で努力をする主人公・谷口の姿が小学生ながらに心に響いて。

◆中学時に県大会準優勝

 ―いつから本格的に野球を始めたのですか。

 白浜中学校入学後、迷わず野球部に入りました。打順は1、2番を任され、中3のときに県総体で準優勝しました。試合会場の県総合スポーツセンター野球場は、千葉の甲子園のような神聖な場所。高いスタンドがあり、中学生ながらに大きく感じ、感動したのを覚えています。

◆「3倍努力」糧に猛練習

 ―高校は文武両道の「安房」に進学し、得たことは。

 小学生だった1976年、夏の千葉大会準決勝の安房対君津商の延長12回まで両校が一歩も引かない激戦を観戦しました。その記憶も残っていたのでしょう。「安房で野球をやる」という強い思いがありました。憧れの野球部に入りましたが、監督の吉沢肇先生がとにかく怖かった。野球に取り組む姿勢から生活態度まで、毎日怒られて。1年の秋と2年の春の大会では8強入りしましたが、夏は3年連続16強。吉沢先生には「その先を越えられないのは、房州人はあばら骨が足りないからだ」と叱咤されました。試合に勝つよりも吉沢先生に怒られないようにする闘いのほうが大変でした(笑)。濃密な練習の日々でしたが、野球漫画「キャプテン」の「人より3倍努力しなくてはいけない」という主人公の思いが根底にあり、乗り越えられました。野球漬けの充実した高校生活を過ごし、将来は指導者になろうと心に決めました。

◆大学で指導者目指し勉強

 ―大学では、なぜ野球部に入らなかったのですか。

 冷静に自分を分析した結果、大学で野球を続けるには技術のレベルが違うと。ただ、とにかく高校野球が好きで、高校野球の魅力にとりつかれていました。ですので、大学時代は高校野球の指導者になる希望をかなえるため、社会科の教諭を目指して勉強しました。甲子園に出場する夢を教え子に託そうと。

 ―はじめて監督になったときの思い出は。

 最初の赴任先の船橋豊富で、念願だった高校野球の指導者になりました。意気込んで8年間指揮を執りましたが、夏の大会では1勝のみ。当時は練習量で勝敗が決まると思い込んでいました。「どうやったら勝てるのだろう」と他校の指導者にも聞いたことがありました。当時は野球を教えていなかった。指導のポイントや試合に対しての組み立て方が分かっていなかったのです。

◆母校を43年ぶり4強導く

 ―母校・安房で監督になり結果を出しましたね。

 30歳で安房に赴任しました。高校の先輩が野球部の監督を務めていたので、自分は部長。監督なんて夢にも思いませんでした。ところが、赴任して2年目に先輩から「監督をやってほしい」と。妻に相談したら「無理だから断ったほうがいい」と言われ、自分でも荷が重いと感じて何度か断りました。ですが、3年で結果が出なかったら自分から辞めようと覚悟を決めました。

 ところが、3年目の99年春に、安房として43年ぶりに4強入りを果たし、その年の夏は23年ぶりの8強。そして秋には14年ぶりの4強に入りました。盆と正月がいっぺんにきた年といわれたほどです。甲子園の入り口がかすかに見えた一方、準決勝の壁を痛感しました。

◆選手に寄り添い「監督」に

 ―強いチームにするために気を付けたポイントはありますか。

 周囲の意見に流されることなく、選手の話をよく聞くようにしました。安房の歴代指導者は選手からは「先生」と呼ばれていましたが、いつしか「監督」と呼ばれるようになりました。選手が自分を信じてくれたからだと思い、勝たせるために頑張らないといけないと気が引き締まりました。

 それから指導法を改めました。守備では捕れるボールを捕り、攻撃では打てるボールを打てればいいという考えを基本に、難しいプレーの練習に時間を割くより「当たり前のプレーが当たり前にできるようになろう」と選手に伝えました。

◆チームの奮起に男泣き

 ―悲願の関東大会出場が、甲子園への切符につながりましたね。

 2006年に入部した岩沢寿和は選手として別格でした。ヒーローの登場と言えばいいのでしょうか。奇跡が始まりました。岩沢が2年生だった秋季大会準決勝の木更津総合との試合前日、選手を前に「おれは勝ちたい」と初めて口にしました。それまで何度も関東大会出場を目前で逃してきました。このチームで関東大会に出場したいと強く思ったのです。後日、キャプテンだった岩沢が部員に「監督が頭下げた。俺も頭下げるから、明日勝たせてくれ」とお願いしたと聞きました。勝ったときは、それはもう男泣きしましたよ。念願の関東大会への出場を決めたのです。それがきっかけで08年の春、21世紀枠で甲子園に出場できたのですから。

◆聖地で初勝利「あっぱれ」

 ―初めて甲子園の土を踏んだ感想は。

 それまで甲子園は自分には関係のない場所。グラウンドに立てるとは信じられなかったです。プレッシャーは強く感じていました。インターネットには心無いことを書き込まれ、大差で負けたら帰れないなと。選手にも「勝つと思うなよ。(実力は)出場する36チーム中、36位に間違いない」と伝えました。実際下馬評もそうでしたしね。それで生徒も楽になったかもしれません。予想以上にリラックスしていました。

 大敗しなければいいと初戦に挑んだのに、結果は2─0で勝利。カメラマン席へのダイビングキャッチという闘志あふれるプレーをした選手もいて、日曜日朝のテレビ番組で、野球界大御所の故大沢啓二さんから「あっぱれ」までいただくおまけまで付きました。

◆甲子園の「魔物」で采配狂う

 ―2戦目は惜敗でした。悔いは残りましたか。

 正直勝てた試合でした。本格派投手を擁する宇治山田商に対し、安房は7回まで1安打で抑えてリードしていたので。ですが、八回に流れを変えてしまいました。ピンチを1失点で抑えた選手に「何をやっているのだよ」と叱咤してしまったのです。いつもなら怒らないのに。甲子園の魔物に取りつかれたのかもしれませんね。

 その日の夜、岩沢が宿舎の私の部屋を訪れ、「監督のおかげです」と、この試合で放った先頭打者本塁打のボールをもらってくださいと手渡してきました。両親にプレゼントしなさいと返しましたが、帰郷後に両親から頂いた手紙に監督に受け取ってほしいとつづってありました。さすがにもらえないので学校に展示することにしました。

 昨年まで安房の監督を務め、99年春のベスト4メンバーの和田聖が1回戦で打った大逆転の足がかりとなる満塁本塁打のボールももらったこともあります。「『監督が奇跡が始まった試合だった』とおっしゃったのでもらってほしい」と。監督として本当に選手に恵まれました。

◆野球人口拡大へ意欲

 ―県高野連会長に就任して、今後の抱負は。

 今の高校野球の取り巻く環境は厳しい状況です。野球人口が減り、高校の野球部員数も少なくなっています。大会では、連合チームを減らし単独チームで出場できるように復活させたいです。高野連では、「高校野球200年構想」の一環で、未就学児から野球に親しませる試みを進めています。昨年はコロナ禍で活動ができませんでした。今後、小さい子どもたちに野球に興味をもってもらうような活動を広げていきたいですね。

◆最後まで集中してプレーを

 ―コロナ禍を経て今年の大会は有観客での開催となります。出場する選手へエールをお願いします。

 野球部員は生徒の模範であれと常々伝えてきました。3年生はコロナ禍が始まった2020年春に入学して、思い描いた高校生活を過ごせず、満足な練習もできなかったはずです。途中、くじけそうになった時期もあったでしょう。

 今年は3年ぶりに有観客の大会で、制限などはありますがブラスバンドの応援も可能です。周りの人は、選手のひた向きな姿に心打たれて応援しようと思うのです。応援してもらえる喜びを実感してプレーしてほしいですね。

 試合結果は監督が考えることです。選手は試合途中に「勝っている。負けている」と一喜一憂せずに、最後まで集中して頑張ってください。結果はおのずと付いてきます。

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